My fate is your thing.
確か、あれははじめて沙織さんとあったときのことだった。
星矢は崖下でふと沙織のことを思った。
手に握られているのは蒼く、丸みを帯びた宝石。
星矢はニーベルンゲンリングに呪われたヒルダを救うために、ワルハラ宮殿へ向かっている途中だった。
トールとの戦いで傷ついた星矢は、足を滑らせて崖下に転落した。
しかし、ムウが直してくれた新生聖衣のおかげで怪我は浅かった。
上を見上げると、はるか遠くに光が見える。
星矢は思わず眩暈を覚えたが、いつまでもここにいるわけにはいかないと、
傷だらけの腕を伸ばし崖を上っていった。
沙織は今、寒風が吹きつける北欧の海辺で祈りを捧げている。
地上の平和のためにヒルダに代わって氷が溶けないように小宇宙を燃やしていた。
しかし、いくらアテナといえどその体は生身。沙織は命を燃やしているのだ。
星矢はそんな沙織のことを思うと胸が張り裂けそうだった。
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13歳にして世界屈指の財団「グラード財団」の総帥である沙織は、幼いころから大人に囲まれて育ってきた。
光政が生きていた頃には孫娘として溢れるほどの愛情を注がれていたが、
光政が死んでからは沙織は財閥の跡取りとしか扱われなかった。
親戚たちは、直系の血筋ではない沙織を疎ましがった。
欲の深い親戚たちは光政が生きていようと死んでいようと、沙織が邪魔なことにはかわりはなかった。
また、沙織も権力に媚びへつらう親戚たちが嫌いだった。誰も沙織に愛情を注いでくれるものはいなかった。
いつしか沙織は感情を外に出すことが少なくなっていた。そして時にはわがままなお嬢様を演じていた。
それは高貴を通りすぎて高慢に見える時があるくらい徹底していた。
氷の仮面を被った令嬢とも呼ばれるくらいだったが、それは自分を守るために、
あまり人と深く関わりを持たないようにするためだった。
実際に沙織には取り巻きがあまりいなかった。沙織は、多くの人に囲まれながらも一人ぼっちだった。
「普通」の少女として、同じ年頃の子供と夜暗くなるまで外で遊んだことはなかった。
両親とどこかへ旅行に出かけたこともなかった。
欲しいものは何でも手にはいったが、沙織は沙織が望む愛を手に入れることができなかった。
「私には「普通」の生活は手に入れられないわ。ならば私は「城戸沙織」として誇り高く生きていく。
本当の私を知らないものたちから、わがままで高慢な女と言われても気にはしないわ」
たった一度だけ、彼女は執事である辰巳徳丸にこう話したことがあった。
彼女が本当の姿に戻れるのは、光政と辰巳の前だけだった。
彼らの前には「城戸沙織」というわがままでプライドの高いお嬢様はいなかった。
素直で優しい、そして傷つきやすい普通の少女がいた。
ある冬のこと、沙織は風邪をひいて寝こんでいた。光政は丁度海外へ出かけていて留守だった。
昨夜から珍しく雪が降り積もり、庭は雪化粧で真っ白になっていた。
沙織は窓越しに、美しく雪が降り積もった庭を目にして感動していた。
「外に出て、あの真っ白な絨毯に足跡をつけてみたいわ。…あの雪の中を走ってみたいわ」
やはり沙織も雪を前にしては子供心がくすぐられた。しかし、辰巳が外に出ることを許さなかった。
「熱が下がって、せきが止まったら庭に出てもいいですよ」
外に出たいというたび辰巳は呪文のように繰り返した。
親戚から送られる見舞いの品に囲まれ、沙織は雪原を自分のものにするときを待ち焦がれていた。
見舞いの品は送られてきても、見舞いにくるものは誰もいなかった。
熱も下がって、あと少しで外に出られるというとき、沙織は窓下を見て愕然とした。
美しかった白銀の絨毯は何者かによって、踏み荒らされていた。
沙織は悲しい気持ちと怒りが入り混じって、行き場のない怒りを押さえることができなかった。
辰巳に見つからないように、沙織は一気に外に飛び出した。
そこには一人の少年がいた。
城戸邸には、光政が日本、ひいては世界から連れてきた孤児が住んでいた。
丁度沙織と同じ年頃だったが、沙織は粗野で乱暴な子供たちとは関わりを持つことをあまり好まなかった。
使用人の辰巳も沙織とは住む世界が違うといって、あまり孤児の住む区画へ連れていかなかったので、
沙織は孤児が何人住んでいるのかということすら知らなかった。
少年は丁度雪だるまの胴体の部分を作っているところだった。
沙織はその少年の前に立ち、思いっきり睨みつけてからこういった。
「おまえ、この庭は誰の庭か分かっているの? ここはお前のようなものがくるところではないのよ!」
いきなり怒鳴りつけられた少年は沙織をまじまじと見つめた。怒り顔だったがとても綺麗だった。
こんなに綺麗な女の子を見るのは初めてだった。少年はふと離れ離れになった姉のことを思い出した。
少年は沙織を見るのは初めてではなかった。時々ここのお嬢さんだよと、遠くから姿を見ることがあった。
少年と仲のいい瞬はすごく綺麗な女の子だったよといっていたが、氷河はあの女はプライドの塊で、
かわいいなんてものとはかけ離れた、傲慢なお嬢様だと言っていた。
…二人の言っていたことはどちらも正しいと少年は思った。
「きれいな顔が台無しだぜ、城戸のお嬢さん」
沙織は怒鳴りつけられたことなど平気だという顔をしている少年に、
あふれる感情を押さえることができなかった。私の命令を聞かないものがいるなんて…
バシッ!
沙織は少年の頬を思いっきり平手で叩いた。叩いた沙織の手も相当に痛かった。
少年は予期せぬ平手に雪の上に倒れた。沙織は靴に星矢と名前がかいてあったのを見逃さなかった。
「誰のおかげで生きていられると思っているの!この私にそんな口をきいてただですむと思って?!
……星矢!!」
星矢は驚いた顔をして頬を手で押さえ、熱く燃える頬を雪で冷やした。
「いってー…、いきなり平手なんて、お嬢さんのやることじゃないぜ。
俺が何をしたっていうんだよ。その前に何で俺の名前…」
「黙りなさい! 靴に大きく書いてあるじゃない! 理由なんてないわ! 私の前から消えて! 早く!」
沙織は自分でもなぜこんなに腹が立っているのかわからなかったが、
ここまで来たらもう後にはひけなかった。自分の思い通りにならないものがあるということだけでも、
沙織にとって耐え難いことであった。
「この一面の雪の絨毯に最初に足をつけるのは私だったのよ!!
風邪が治ったら私が一番にここで遊ぼうと思っていたのに! それなのに、お前が私のっ…!!」
沙織はそこまで言うと泣き出してしまった。
星矢はいきなり泣き出した沙織を見てうろたえた。同時に泣きたいのはこっちだよ…とも思った。
「なっ、泣くな! こんなことぐらいで泣くなよ! 雪ならまた降るだろ?!
なあ…俺が悪かったよ! だから泣くのやめろよ!」
こんなところを辰巳に見られたら星矢はどんな酷い罰を受けるか分からなかった。
孤児たちにとって、辰巳は恐怖の対象だった。出来れば辰巳には目をつけられたくない。
瞬の兄の一輝はことある毎に辰巳に反抗して、傷だらけになって帰ってくるのを誰もが知っていた。
一向に泣き止まない沙織を星矢はどうしていいか分からなかった。
寝巻きのまま飛び出してきた沙織に自分の着ていたジャンパーを肩にかけ、
とりあえず木陰に連れていった。ふと屋敷の方を見ると辰巳が沙織を探してかけ回っていた。
沙織は泣いていたので抵抗はしなかった。自分でもどうして泣いているのか分からなくなってきた上に、
子供じみたところをこの少年に知られてしまったことに羞恥心を覚えていた。
いつもは城戸家の令嬢として、取り乱すことなく高貴に、そして優雅に振舞っていたというのに…。
沙織がそんなことを思っている頃、星矢は必死にまだ踏み荒らされていない場所を探していた。
少し先にまだ綺麗に雪が残っているところを見つけた星矢は、
辰巳がいないことを確認して、沙織の手を握って走り出した。
いきなり手を握られた沙織はびっくりしたが、星矢が走り出したので振り放すことができなかった。
初めて男の子に手を握られた、という出来事に沙織は少し顔を赤くした。
「ほら、ちょっとしかないけどここならまだ誰も足跡つけてないぜ! 今日は、これで我慢しろよ?」
星矢は得意気に笑った。そしてまだ痛む頬をに手をあてた。
沙織は涙を拭いて新雪の上に立った。雪は沙織を柔らかく受けとめた。
雪の感触を確かめたあと、沙織は嬉しそうに走り回って足跡をつけた。
星矢は沙織と一緒に走り回りたかったが、ここは一人だけにしてあげるのがいいと思った。
うっかり足跡をつけてまた平手打ちされたらたまらないな…というのが本音だったが。
息が上がった沙織は雪の上に寝転んだ。
「冷たいわ…」
「そんなことしたら風邪ひくぞ」
「もうひいてるからかまわないわ。熱を持った体が冷やされて気持ちいいくらいよ」
沙織は星矢の頬に目をやった。沙織の手の形のまま赤くはれ上がっていた。
「さっきはごめんなさい。痛かったでしょう」
「いいさ、気にするなよ。オレだって同じことされたら悔しかっただろうし」
星矢は何故か怒る気になれなかった。
何でも手に入るはずなのに、あんなことで怒るなんて…やっぱり普通の女の子なんじゃないか、
周りに誤解されてるんだろうな…この分じゃまともに友達もいなさそうだし、と思っていた。
それに元々星矢は女の子には優しかった。女の子には絶対に手を上げなかった。
姉と2人で育ってきた環境が星矢をフェミニストにする一因だったかもしれない。
「私の手もかなり痛かったわ」
「かなり効いたぜ、あんたの平手」
その時だった。
「お嬢様ーーーーっっ!!!」
辰巳だった。
辰巳は雪の上に倒れている沙織を見つけると一目散に駆け出してきた。
「やばっ! 辰巳だ! …つかまったらただじゃすまないな…オレもう行くな! じゃ!」
「あっ、星矢! これ!」
沙織は肩に掛けていた星矢のジャンパーを差し出した。
星矢は慌ててそれを受け取り、袖を通した。星矢の体はかなり冷えていた。
「今度雪が降ったら、ここがあらされないように見張っててやるよ」
「…ありがとう! 星矢!」
沙織は心からの言葉と、満面の微笑を浮かべた。
その言葉に振りかえった星矢は、沙織の美しさに顔を赤くした。かわいい、というよりも美しかった。
氷の令嬢というニックネームからは全く想像もつかないほど、素敵な笑顔だった。
もっと見ていたかったが、辰巳はすぐそこまで迫ってきている。
星矢は雪に足を取られながら猛スピードで走っていった。
星矢が立ち去ってすぐ、辰巳が沙織のもとに駆け寄ってきた。
「おおお、お嬢様?! どうしてこんなところに!」
「先ほどの少年は何者です!」
「こんなに冷えて! 早くお部屋に戻りましょう! 風邪が悪化します!」
「寝巻きで外に出られるとは何事です!!」
「ああ、光政様にこのことが知れたら…」
矢継ぎ早に次から次へと小言を浴びせ掛ける辰巳を制し、沙織は優しく呟いた。
「…また雪が積もらないかしらね、辰巳」