夏の午後
小バラのアーチを抜けるとさわやかな水音がした。
そう大きくない丸い噴水を中心にしたイギリス庭園が造られている一角である。広大な城戸邸にあってこの場所を好む者は多いが、残暑厳しいこの時期にいる者は少ない。
首をめぐらすと、ちょうど反対側に噴水の縁からちょこんと帽子が見え、そして帽子からこぼれる金髪が見えた。その金髪が見えたとたん、沙織はなんだか嬉しくなって、噴水に沿って小走りに駆け出していた。手に持ったバスケットの中身には気をつけながら。そしてまた、日傘は動きを制限させるわ、と思いながら。
噴水の台座を背もたれにして、芝の上に長い足を投げ出していた氷河は近づく足音に随分前から気がついていたが、目の前に現れた日傘の少女の愛らしさに思わず少しばかり目を見張った。見慣れた人なのに、夏の日に輝くばかりに美しい。
沙織はお茶の用意が出来ているバスケットを氷河に渡して、わざと丁寧に声をかけると、氷河も紳士気取りで応えた。
「お邪魔していいかしら?」
「もちろん。よろこんで。」
本を読んでいた手を休めて、目の前に立つ沙織に手を差し伸べる。
氷河の長い指に手を絡めると、沙織はそのまま氷河の腕の中に引き寄せられ、あっと思う間もなく涼しく微笑む氷河にキスされていた。
「・・・キスしないっていう約束よ?」
「挨拶だってのに、あいつが分からず屋なんだよ。」
「あの時の傷あとでしょう?この腕の傷。」
男とはハグで、女性とはキスという挨拶習慣だったという彼の言葉は、仲間内ではかなり信憑性がうすい。実際辰巳とハグしているのを見たこともないし、星の子学園の女性陣とそんな挨拶を交わしているのを見たこともない。そう指摘しても、日本ではポピュラーじゃないから自重してるんだ、でも沙織さんは世界で働いてるから別に普通だろ?とけろりと言う。それで以前ひょいと沙織にキスしたとき、愕然とした星矢から彗星拳が放たれたというトラブルが起こったのだ。
「傷のかわりに沙織さんと挨拶できるなら、俺は甘んじて受けたいね。」と言ってまたキスしようと顔を寄せてくるので、沙織はくすくす笑いながら、すいと小さく身をよじって言った。
「そんな言葉、他のどれだけの女性に言ってるの?あんまり罪なことしないでね。」
「心外だね沙織さんにしか言わないよ。どうして星矢なんかがいいんだ?今からでも俺にしたらいい。」
あくまで氷河は優しく語る。これらの言葉に真実はないことをお互いに解っていて、いつまでも遊びに興じているのだ。子供のように。子供時代を取り返すように。
「星矢に見つかった後、私も大変だったのよ?」
「あー。あいつは根が暗いからなぁ。しつこそうだ。」
「・・・それ程ではないけれど。」
恋人を批判されると反発したくなるのは、人情というものだ。沙織もやはりそうつぶやくと、氷河はふと微笑んで沙織の白い額に小さく口づけた。
金髪青眼の天使を連想させる彼がなんの邪気もなく笑うと、本当に天使のようで、男も女も見とれてしまう。
「星矢の幸せに。」
「いたずら好きな天使のあなたに。」と言って沙織も氷河の額にくちづけ、二人して密やかに、幸せに笑いあった。
やっと氷河の腕から開放されて、大人しく横に座り直した沙織の背に、大理石つくりの噴水は想像以上にひいやりと冷気が伝わってくる。ふと振り返ると、噴水のなかには大きな氷がいくつも水に浮かんでいた。
暑いのが苦手なはずの氷河がこんなところで読書していられるわけだと、一人納得し、そういえば随分昔から城戸邸の冷房は従来どおりのエアコンと、人力による製氷冷房の併用を導入したことを思い出し、また笑えて来る沙織だった。
氷の欠片はお互いにぶつかり合ってからりと澄んだ音をたてていた。手を差し入れると、山の泉のように冷たかった。「今日は星矢はどうしたんだ?」
「さぁ?」
「やけにあっさりしてるんだな。」
「最近みんな自分の勉強に忙しくて、つまらないわ。喜ばしいのだけど。」
星矢を始め、城戸邸に入居している青銅聖闘士達は将来を考え始めていた。
いったん勉強を始めだすやいなや、あっという間に大学生レベルの勉強は学んでしまった。聖闘士の集中力はすさまじかったし、それを支える体力も桁はずれなのだ。
氷河の読んでいた本をめくってみると、それも数式の解説書だった。
「星矢に言っておこう。彼女が欲求不満だって。」
「バカ。」
分厚い解説書で殴るまねをした沙織に、殴られたふりをした氷河。今はこんなたわいない日々を作っているのだった。
「日本語で書いてあるから難しいんだ。この本。漢字が分からない。」
辞書を片手にページを指し示す氷河に、日傘を傾けるとついと押し戻された。
「日に焼けるぞ。」
「直射日光の下の読書は目によくないのよ。」
「ふ、む。」と思案したあと、ふいに立ち上がり、噴水の水に手を差し入れた。