桜隠し
〜ハーデス戦を前に、沙織と星矢、そして…〜
桜の花びらが、舞い踊る。
視界を埋め尽くさんばかりの、淡い緋色の世界。
そこは、城戸邸の敷地内に埋められた、一万本にも及ぶ桜の園だった。
(綺麗だわ…)
春の風に弄ばれる髪を、沙織はそのしなやかな指でおさえる。
足下には、花びらの絨毯。歩を進めれば、白いパンプスの底からは柔らかな感触が伝わってくる。
(こんな風に…あの日も、桜が満開だった)
春らしい、薄い紫のワンピースのスカートを揺らしながら、沙織は桜の園を歩く。
沙織の胸に蘇るのは、幼き頃の、思い出。
風とたわむれる花びら達が連れてくるのは、あの日出会った少女の笑顔。
ふいに、強い風が吹いた。
「あっ…!」
風は地面へと降っていた花びらをさらって、天へと上る。
天へと。
陽光の眩しさに、思わず目を覆った。
沙織の瞳に、春特有の穏やかな青空が飛び込んでくる。
あの日と同じだ、と沙織は思った。
あの日もこんな風に晴れ渡っていた、と。
淡い緋色の世界の中に、幼い自分を、沙織は見つけた。
「ひぃ…く……おじいさまぁ………」
幼い自分は泣いていた。理由はよく覚えている。祖父が仕事で、もう三日も海外に
行っていたのだ。
(おじいさまなんて、大嫌い…どうして、沙織の側にいてくれないの?)
膝を抱えて座り込み、ドレスのスカートに顔をうずめる。祖父がよく似合うと誉めてくれた、
深緑色のベルベットドレスのスカートに。
「どうしたの?」
突然掛けられた声に、沙織は顔を上げた。
「どうして、泣いているの?」
心配そうな面持ちで自分を見下ろしているのは、くせ毛が印象的な、自分よりは幾分年上の少女だった。
「おじいさまが…いないのぉ……」
彼女の方こそだれなのか、とか、どうして、そこにいたのか、などということは、その時の沙織にはどうでもよかった。
ただ、寂しかった。
誰かに、側にいて欲しかった。
「お仕事に、行ったの…沙織を置いて」
「沙織ちゃん、ていうんだ」
親しみが込められた、呼び方。それは沙織が初めて聞くものだった。祖父を除いた周りの誰もが、畏怖を込めてこう呼ぶのに。沙織お嬢様、と。
「じゃあ、おねえちゃんと遊ぼうよ」
少女が差し伸べた手は白く、柔らかそうだった。
不思議そうに見つめる沙織に、少女の笑顔が向けられる。その表情からは、なんの悪意も計算も読み取れなかった。
そっと、手を伸ばす。
暖かな人の体温に、安堵が広がる。
重ねた手は握り返され、沙織を立ち上がらせた。
「かくれんぼ、しようか?」
「かくれんぼ?」
なあに、それ?と問うと、少女は少しびっくりしたようだ。
「え、知らないの?そっかー…うーん、えっとね…」
手を口元にあて、軽く目を閉じて考える少女を、沙織は今度は頼もしそうに見つめた。
目を輝かせて、少女の次の言葉を待つ。
「あ、あのね!」
少女は何かを思い付いたらしく、声を弾ませ沙織へと向き直った。
「涙をね、隠すのよ」
それはとても素敵なことのように、沙織には思えた。
「涙を…隠す?」
「そう、桜の中にね」
桜の、中。
少女が導く世界の先にあるものを想像して、沙織は胸を高鳴らせた。
「おもしろそう!やってみたいわ!!」
「でしょ?」
小首を傾げて頷く少女に、沙織はねだるように質問する。
「ね、どうするの?」
「最初にじゃんけんで『鬼』を決めるの」
「鬼?」
「そう、負けた方がなるのよ」
じゃんけんを知らないというと、少女は丁寧に教えてくれた。そして実践した結果、負けたのは沙織だった。
「沙織ちゃんに『鬼』は似合わないね。そうね…『天使』。
天使になって、おねえちゃんを探してくれる?」
「天使…?」
私が…?
嬉しさと気恥ずかしさが入り交じった気持ちが、沙織の心に訪れた。
「十数えてね。その間におねえちゃんは隠れるから。ゆっくり、数えるのよ」
その数え方も、少女から教わった。
いーち。
にーい…。
淡い緋色の世界に、幼い自分の声が響き渡る。
まぶたを軽く手で覆って数えるように、と言われてそうしていたが、散ってゆく花びら達は十分に、手の平の代わりをしてくれそうだった。
「…じゅーう!」
やっと数え終わり、目を開ける。
少女の姿は消えていた。
視界に映るのは、ただただ舞い踊る、桜の花びらと。
降り注ぐ、柔らかな春の陽光。
どこまでも連なる、木々の茶色。
春が来るたび、ここには何度も足を踏み入れた。
しかし、この場所の美しさを、沙織は今初めて認識したような気がする。
ここには、誰にも見せられない、涙を流すためだけに来ていたから。
「…おねえちゃん?」
探す。
誰かを、探す。
そんな記憶を、沙織は今まで持ったことがない、とふと思い当たった。
心細い。
でも、探す人がいる、ということは、なんだか…とても優しい気持ちになる。
淡い緋色の世界を、しばらく彷徨って。
幼い自分は、ついに見つけた。
少し赤みがかった、強い癖毛を。
「おねえちゃん!」
沙織の呼び掛けに、少女が振り向いた。
温かな笑顔に向かって走り、思わず抱きつく。
そして、彼女から教えてもらった言葉を口にする。