桜隠し
〜ハーデス戦を前に、沙織と星矢、そして…〜
「みぃーつけたっ!」
少女は沙織を受け止め、抱き返してくれた。
見つめ合う。
そうして、どちらからともなく。くすっ…と、笑い声が起こった。
それは微かなものから、だんだんはっきりしたものになり、囁き合うような少女達の笑い声が、桜の園に木霊した。
ひととおり笑い終えた後、少女は沙織の瞳を見つめ、こう言った。
「いい目をしているわ」
「え?」
なんのことだか分からず、沙織は聞き返した。
「まっすぐで、ひたむきで…正義感の強い、とてもいい目をしているわ。弟と同じね」
「弟?」
「ええ。星矢、っていうの。この間、ここのお屋敷に引き取られたのだけれど、面会が出来なくって。
それで、こっそり会いに来た帰りに、沙織ちゃんを見つけた、ってわけ」
屋敷に引き取られた…。
先日、100人もの孤児がやってきた理由を、沙織は知っていた。祖父が『聖闘士』にするためだ。
だがそれを今彼女に告げていいものかどうか、沙織は迷った。
なぜなら…
「星矢なら」
少女の声に、沙織の思考は中断された。
「星矢なら、これからどんなに辛いことがあっても、どんなに苦しい思いをしても、
必ず乗り越えてゆく。私は、そう信じてる」
言い切った少女に、沙織は思わず見とれた。
美しい、と思った。
こんな風に、強く信じる者がいるということは、美しいものだ、と。
祖父の事は確かに信じている。沙織を守ってくれる絶対の存在であることは確かだ。
だが、違う。
よく分からないが、何かが違うのだ。
彼女のような美しさは、今の自分の中にはない。
「あ、いっけない!」
少女が慌てて、腕時計に目を走らせた。
「孤児院に戻らないと!今日の夕飯の当番、私なの」
「え」
少女が、行ってしまう。
そう思ったとたん、沙織の中で悲しみが広がった。
すがるような瞳を、自分はしたのだろう。少女は、複雑な表情を浮かべた。今思えばそれは苦笑、と呼べるものなのかもしれなかった。
少女はかがんで、沙織と視線の位置を合わせた。
「また来るね、ここに。沙織ちゃんに会いに」
「うん」
「今度は、笑顔でいてね」
「うん」
「きっとよ」
「うん」
「よかった」
心からの、少女の笑顔は。
桜の花びらに、飾られて。
沙織の心に鮮やかに深く、刻み付けられていった。
「じゃあね、沙織ちゃん!」
右手を大きく頭上で振って、少女は駆け出した。
「うん!おねえちゃん」
沙織も、振り返す。少女の姿が、次第に小さくなってゆく。
再び一人になってしまったところで、沙織は気が付いた。
「あ!」
名前を、聞いていなかった。
「おねえちゃん…」
ひらひらと舞い続ける、無数の花びらの中に。
幼い沙織はただ、立ち尽くすしかなかった。
呼ぶべき名前を、『探して』。
思い出の中と同じように舞う花びらを捕らえようと、沙織はそっと手を伸ばした。
柔らかな感触を指先に感じたが、それは手の中に収まらず、するりと擦り抜けていく。
擦り抜けて…まるで、あの日の少女のように。
「星華さん…」
6年経って、やっと分かった、あの日の少女の名前。
あれから、彼女に会うことはなかった。そして自分は今も、彼女を『探し』続けている。
目の前の緋色の世界は、あの日と全く変わらない。
ただ自分の心だけが、この場所に残されてしまった。
自分のことを“天使”だと言ってくれた彼女。
遊ぼうよ、と優しく手を差し伸べてくれた彼女。
笑顔で抱き締めてくれた彼女。
あの時の温かさを思い出すたび、沙織は切なさに襲われる。思い出の中の彼女は、探しても探しても、見つからない。
見つからない。
今でも、隠れていそうなのに。あの、大きな桜の木の陰に。
ほら…
「沙織さん!」
突然、呼ばれた。
その声の主を探せば、
「星矢…」
愛しい思いを捧げる人が、息を弾ませて駆けてきていた。
「やーと見つけた、沙織さん」
『見つけた』
その言葉に、沙織の心が震える。
「お茶の用意出来たって!今日のケーキすげーおいしそーなの!早く行こうよ、沙織さん」
差し出された、その手は。春の陽光に包まれて。眩しく輝いていた。
『いい目をしているわ』
あの日の少女の声が、沙織の中で響く。
『弟と同じね』
光に向かって、手を伸ばす。
と。
「さ、沙織さん?!」
星矢が、慌てている。どうしたのだろう?
「どうしたのさ?」
「え…」
「なんで、泣いているの?」
泣いて…。
自分を覗き込む瞳が表情が、あの日の少女と重なる。
「ごめんなさい、星矢」
「なんであやまるのさ?!」
「わたし…あなたのお姉さんを探す、って約束したのに…まだ見つけられなくて」
驚いた顔で、星矢は私を見つめていた。
桜が、舞う。
「沙織さん」
その口調はひどく優しく、穏やかなものだった。
この春の日差しと同じように。
「俺、信じてるから。沙織さんも、姉さんも」
「星矢…」
『信じてる』
その言葉の意味と美しさが、今ならやっと理解出来る。
『どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しい思いをしても、必ず乗り越えてゆく』
あれは、こういうことだったのだ。
肩に置かれた星矢の手から伝わる、この熱さと共に。
「さ、みんなの所へ行こう」
「ええ、星矢」
信じよう。
必ず。
再び巡り会えることを。
END