望み 

 


 窓辺で目を閉じて風に吹かれていた。長い髪がふわりと舞う。
 心を研ぎ澄ますと、地上に生きているものから木の葉をつたう雫のひとすじまで、すべての存在が感じられる。
 この地上にあるものたちの想いが、空をうめつくすようにありありと感じられた。
 そのすべてが愛おしかった。たとえそれは、ときに愚かしくやり切れないものであったとしても。
(どうかみんな、幸せに……)
 たとえ私にはもうできることが無くても、見守ることさえできないとしても。
 信じているから……
(幸せに、幸せにね……)
 穏やかに微笑む彼女から、金色の粒子がこぼれてはじけたように見えた。

 彼女を見ていると何故だか胸騒ぎがしてならなかった。
 それは、幸せそうに微笑んでいるというのに……
 胸の奥がちりちりと熱くなる。
 彼女は笑っていた。冬の終わりの日溜まりのように、優しく……
 その姿を見ていると、訳も分からず不安になる。
(沙織さん……)
 何でだ?何で、こんな……。
 仲間たちが、沙織さんが、戦いから解放され笑顔で暮らせる日。それが今、やっと訪れた筈なのに……



 幾度かの戦いを経て、平和が訪れた。
 少なくとも女神の守護が必要とされるような巨悪はこの時代にはもう現れないであろうと、聖戦は終わったのだと思われた。
 沙織はその微笑みを以前よりもずっと絶やさないようになり、彼女はもはや何も憂うことのない人生を送るのだと周囲の誰もが信じていた。
 星矢もそう信じていた。が、彼の小宇宙は何かを感じ取っていた。
(敵の予感……?いや、違う)
 それは、沙織を見ているときに感じられた。彼女はただ微笑んでいるだけなのだが……
 今の沙織は、かつて戦士達に希望を与え続けた気高い笑みとはまた違う、優しく慈愛に満ちた微笑みをうかべていた。
 それはやっと手に入れた平和を噛みしめているようにも見えたし、今の日々をゆっくりと穏やかに楽しんでいるようにも見えた。
 だから、別に不審に思う事は何も無いはずなのだが……
 星矢の中のどこか深いところが何かを感じ取っていた。
 それは決して、喜ばしいものでないことだけは分かる。
 沙織を見るたびに、なぜか動悸が速くなり、息が苦しくなる。
 その不安の理由が分からないことがまた不安を呼んだ。

 胸騒ぎの正体がわからないまま、星矢は沙織の顔をよく見に来るようになった。
 特に何か話があるというわけでもないので、いつもと何も変わりが無いことを確認するとすぐに退散するのだが……
「星矢、どうかしたのですか……?」
 さすがに以前よりちょくちょく来るようになった星矢に対し、きょとんとした瞳で沙織が尋ねてきた。
「あ、いや、別に何でもないんだけど……」
 訳も分からず不安だとも言えなかった。
 それでも、多少不審に思われても沙織の様子を見に来てしまう。
 沙織もやがて星矢に何も尋ねなくなった。そして、そっと笑顔を向ける。
 しかし、普通なら安堵を感じさせるはずのその美しい微笑みが、星矢のどこかに引っかかり、気になるのだ。



 それでも、一見安らぎに満ちた日々は重ねられてゆき、しばしば訪ねていく内星矢は沙織と何気ない会話を多く交わすようになった。
 そんな日々を見届けると、友たちは各地へと散っていった。

「何だ、瞬も行っちゃうのか?」
 紫龍、氷河に続いて、瞬までここを離れるとは……
「しばらくしたら、戻ってくるよ」
 平和になり一段落ついた今、第二の故郷であるアンドロメダ島をはじめとした島々の様子を見たいのだと、瞬は行った。
「どんな苛酷な地にも、人は住み、子供は産まれて来るんだ……」
 自分を育ててくれた地の人々。自分に役に立てることは無いかもしれないけれど、それでも、行って見届けてみたいのだと彼は言った。
「そうか、気をつけてな」
(さびしくなるな……)
 沙織さんの周りが。
 星矢は、思わずそう続けそうになった自分に少し戸惑った。
 その表情が読めたのか、
(星矢が沙織さんの何を心配しているのかが気になるけど……)
 瞬は思う。
 昔から、星矢が沙織を見る目は、他の人間とは違っていた。
 星矢が沙織を見るときは、外のものに惑わされない。ただ、唯一彼自身の心そのものが、その目を曇らすことがあるが……。
(だからきっと……)
 自分には全く予感できない何か、これから沙織自身に何が起こるのかを見届けられるのは、あるいは救えるのは星矢だけなのかもしれない。

 旅立つ瞬を、沙織はいつものように笑顔で見送った。
(いつか俺がここを去る日が来たら、やっぱり沙織さんはこういう風に笑って見送るのだろうか)
 沙織は何人を見送るのだろう。ふと星矢はそんなことを考えた。

 瞬が去ってから、星矢は前にもまして沙織のそばにいるようになった。
 寂しくないように、少しでも賑やかにと、努めて明るく話しかける。
 沙織が不安を感じないようにすること。それが自分の不安をまぎらわす唯一の手段である気がしていた。
 しかし、時々何を話せばよいのか、どうしたら沙織が喜んでくれるのか分からなくなり、おのれに苛立つこともある。
(俺は結局、力で沙織さんを守るしか能がないのか……?)
 平和になった今、自分はここでは何もできないのか。
 そんな星矢の様子にも、沙織は相変わらず、すべてを包み込むように穏やかに笑っている。
 星矢はやがて、その微笑みそのものが見ていて辛くなることに気づいた。

 夜、灯りをつけず沙織は星を眺めていた。
(どうして、星矢は……)
 このところずっと、自分といてくれるのだろう。
 もういいのに……もう、私は十分なのに……
 星矢が、自分を心配しているらしいことは気づいていた。
(星矢は優しいから……)
 薄く、笑う。そしてその優しさはいつだって沙織の期待を裏切るように発揮されるのだ。
 沙織の脳裏に、ある影が浮かんで来る。血と剣と心臓と、そして……
(……!!)
 頭を振って、その像をうち消す。
 速くなった鼓動を鎮め、いつものように穏やかに微笑みを浮かべる。
(星矢……私は、もういいの……)
 あなたは、私と宿命から解放され、やがて愛する人を見つけて、幸せになるの……
 幸せに……
 瞳を伏せた沙織の背から、金色の砂のようなものが光り流れ落ちてゆく……



(……柄でもないか、な)
 自分にはできることは無いのか。あれこれ考え続けていた星矢は、ふと花を見つけこれを沙織に贈ることを思いついた。
 とは言え、城戸邸の奥から摘んできたものであったりするのだが……
 手入れは良くされているとは言え下手な公園よりずっと広い敷地を持つ城戸邸の庭には、奥の方にはほとんど自生しているような花も多い。
 そんな中から、適当に摘み取ってもよさそうなものを持ってきてしまった。可憐な花だった。
(俺がこんなことをするなんてな……)
 どんな顔をして渡せば良いかわからず、ついぶっきらぼうに押しつけてしまった。
「ありがとう、星矢……」
 それでも沙織が笑って受け取ってくれたので、星矢は少し後悔した。
 しかし、彼女が本当に喜んでくれているのかどうかふと不安になった。
「その、こんな小さな花で良かったのか?」
「ええ、嬉しいです」
 答える沙織と、瞳が真っ直ぐに合った。
 かつて戦いの中にあったとき、その瞳には力強い輝きが宿っていた。しかし、今は……?
 慈愛。それしか感じられない。不安も何もうつさない、美しい瞳。
 にこやかに微笑む沙織。それは、花をもらって嬉しいからか?いや……
 あまりにも穏やかで優しく、満ち足りたような笑み。
 星矢は、感じていた。
 今も沙織は、誰かのために笑っている。
 俺のために?あるいは、その花のため?その花を咲かす、この水に、光に、大地に?
 沙織の大事な、この地上すべてのために……?
(沙織さん……)
「他に何か、欲しいものとかあるか……?」
「いいえ、これで十分。ありがとう……」
 星矢の中で、何かが形になっていく。
 沙織は、何を望んでいる?何を今まで望んできた?
 地上の平和?だとしたら、今は、今は……
(これで十分……)
 沙織の言葉が、星矢の頭の中をぐるぐると回る。
 何故だかこみあげてきた熱いものを振り払おうと、星矢は頭を振った。
 だってあんまり、もう何も望むことはないとでも言いたげに笑うから、俺は……
 ふと、沙織の体から金色の光がこぼれ落ちたように見えた。



 自室に戻り星矢のくれた花を部屋に飾っていると、辰巳が入ってきた。
「お嬢様、財団の今月の決算についての書類です」
「ありがとう、目を通しておきます」
「それで、今後のことですが」
 財団の運営は、沙織無しでも何ひとつ問題はない。沙織の女神としての宿命を知っていた故・光政は、信頼できる最高の人材を揃えその運営を会長抜きでも揺るぎないものにしてくれていた。しかし……
「重役会では、できればお嬢様ご自身にいらしていただきたいと……いえ、お嬢様の手をわずらわすまでもなく、財団は順調な伸びを示しておりますが……」
「分かっています、いつも皆にまかせきりで申し訳ないと思っています。ですが、もうしばらく時間をください……」
「はっ」
 うやうやしく、辰巳は下がっていった。
 きっと辰巳は、戦いの疲れからもうしばらく休んでいたいのだろうと考えているだろう。
 重役連は女神のことなど知らないが、沙織の年齢を考えれば、財団の仕事を本格的に背負うのはまだためらいがあるのも

無理からぬこと……と思っているに違いない。
 だが、それでも財団に欲しいと言わせるだけの能力が沙織にはある。
 幼い頃からの教師たちの言葉がふとよみがえる。
「いえ、お嬢様は私の知識すべてを吸収なさいました。今は私の方が教えを請いたいくらいです」
「知識量もさることながら、洞察力、判断力、決断力……まさにグラード次期総帥にふさわしいものです。」
「実に素晴らしいの一言につきます。海外でしたらすでに大学にご進学なされていたことでしょう」
 すべて、お世辞ではなかった。
 あれは10歳くらいのときだったか。
 次期総帥として財団トップの仕事を見学していたときのこと。何気なく書類を読んでいた沙織は、業績不振部門の問題点を的確に指摘し、大胆かつ緻密な改革案を示し、その場合に想定される各種ケースのシミュレーションまで行って見せた。
 もっとも、それを子供の戯言と受け流さずにきちんと評価したグラード財団トップもかなり優秀であると言える。
 ともかくその沙織の案を採用した年は、事実、財団グループは業績を伸ばし株価は上昇したのだ。
 この能力は努力して得たものではない。
 もちろん、それが天賦の才能であるならなおさら無駄にすることは許されないと沙織は思う。
「お嬢様」「沙織お嬢様」
 そう呼ばれ続ける日々が、辛くなったこともある。それでも、城戸の娘として他の人にないものを背負えるなら、その責務を果たし抜くべきだと思ってきた。
 そう信じていたのだが……
 やがて女神として目覚め、その長い責務を果たした今、もう一度自分のことを考える。
(これが、神の能力なら……)
 人間の持つべき力では無いのなら。私はもうここにいるべきではないのかもしれない。
 そう思ったとき、沙織の体から金色の粒子がこぼれ落ちた。
(あっ……)
 また、星が落ちた。
 


 


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