沙織の体、小宇宙を形成する星々。
 それを沙織という一人の人間にまとめている力、それが弱くなっているのを感じていた。
 沙織の体を離れた星は、やがて風とともにどこかへ散っていく。
 通常の人間ならこんなことは起こらない。しかし、彼女の体は。
 両親を、血筋というものをもたず突然にあらわれた存在であるがゆえに、不安定さを持っていた。
 けれど沙織は同時に、この状態を少し嬉しくも思っていた。
 自分をつなぎとめる力が弱くなっているのは、きっともう女神としての役目が不必要であるためだろうと、

 それは真に平和が訪れたことを意味しているのだと考えたからだ。
 不安は、なにひとつ感じていなかった。
(ならばこのまま、静かに風に吹かれてゆくのも良いかもしれない……)
 何年もかけてゆっくりと、この愛する地上のすべてに散ってゆく……
 沙織はまた、あの穏やかな笑みを浮かべた。

  

 星矢は部屋に戻ると、ベッドに倒れ込み枕に顔を伏せた。
 どういう訳か悔しさ、切なさがこみあげてきて、体が熱くなる。
 沙織にもっと、他者のためではなく自分自身のために笑ってほしい。
 いつのまに、こんなことを考えるようになったのだろうか……
 沙織自身の望みは何なのだろう。
 愛するものの幸せ、沙織の愛したすべての……。
 それは分かる、分かるのだ。沙織は心底自分達聖闘士を、人々を、地上のすべてを愛している。だけど、そうではなくて……
(結局沙織さんは、自分個人のために何か求めて得られたことがあったのか?)
 遠い日、わがまま放題に振る舞っていた彼女をふと思い出した。
 一見何不自由なくしたいことをしているように見えて、自分の本当に欲するものが分からないまま苛立つ少女。
(俺は、俺は……)
 気づいていたはずだ。
 対等の友も兄弟も持たない幼い日の沙織。その瞳に宿っていた影に。
 それなのに……それを認められず、憎むことしかしなかった。
 彼女は自分を姉から引き離し、自分の人生を思い通りに支配しようとしていた相手。わがままで高慢で何ひとつ不自由なく過ごしている女、そう思いたかった。
 そうしなければ自分を保てなかったし、実際、あのときの自分にはそう思う以外のことはできなかったと思う。
 だがそれでも……
 今なら言える、自分は心の奥底で彼女の孤独に気づいていたと。そして、気づいていながらそれを心の底に沈めたことは罪だと。
(くっ……)
 胸に痛みが走り、拳を強く握りしめる。
 許して欲しいと言えたなら、どんなに楽だろうか。
 あれから時が流れ……おそらく、沙織は自分の欲していたものを知った。知った代わりに、それを自分ひとりのために望むのをやめたのだ。
 幼い少女は、女神になった。
 そして、女神の役目から解放された今も、彼女が望むものは……
(沙織さんに……)
 今まで戦い続けてきた彼女に、今こそ幸せになるべき彼女に。
 何かしたいと、何か欲しいと言ってほしい。そうすれば、俺は、沙織さんが幸せになれるなら、どんなことだって……
 だってあんな、あんなに、満足しきったように笑うから、俺は……
(沙織さん、沙織さん……!)
 いつのまにか、熱いものが星矢の頬をつたい落ちていた。

 自分にできること。自分のなすべきこと。それら以上に。
 自分自身の望むもの。それは……
(今、私は幸せだから……)
 何もいらない。
 何も、いらない。
 目を閉じると、風が心地よかった。そのまま沙織は、うとうととまどろみそうになる。
 やがて、この地上の人々、女神の聖闘士達、ひとりひとりの姿がまぶたの奥に浮かんでくる。
 死んでいった人々に安らぎを、生きていく人々に幸せを……
 多くを犠牲にしたという辛い痛みを越えて、穏やかに包み込むように微笑み祈る。
 やがて彼女の体は淡く光りだす。
 そのとき、沙織の頬に何かがあたり、彼女は目を開いた。
(……花びら?)
 星矢のくれた花だった。
(沙織さん、沙織さぁん……)
 声が、聞こえた気がした。
(星矢……?泣いているの……?)
 沙織の体から流れ出る光が消えた。
 静かだった心がざわめいた。どこかから湧き起こってきた衝動が、沙織の胸をかき乱す。
(あっ、だめ……)
 自分の心に何かがほとばしりそうになるのを、必死で抑えた。
 一瞬、視界を何かがよぎる。
(大丈夫、もう大丈夫……)
 心を静めながら、自分に言い聞かせる。
 自分は星矢を愛している。この地上のすべてと同じく。
(ほら、平気……)
 ちゃんと言える。自分は星矢を愛していると。
 かつては、星矢を愛していると考えることもできなかった。そんなことを考えた途端、自分を、彼を壊してしまいそうだったから。
 でも今はもう平気。私は星矢を愛して彼の幸せを祈っている。皆と同じように。
 ほら、ちゃんと言える……
 そのとき沙織の脳裏に、赤くほとばしる何かが閃めいた。
 それを必死に押さえつけ、沙織は祈った。
(星矢……、どうか幸せに……)
 ここではないどこかで、私ではない誰かと。
 お願い、星矢……
 だって、私……、私はきっと、いつかまた、あなたを……
 視界が赤く、赤く染まってゆく……

 

翌日。


 星矢は、沙織と会うのが不安だった。しかしだからこそ、会いに行かずにいられなかった。
「あ、星矢」
 沙織は、星矢が来るのをどこか怖れていた。しかし、いつも通りの微笑みで彼を迎えた。もう平気、現に今、

星矢を前にしても心穏やかでいられると、自分に言い聞かせながら。
 自分に笑いかける前、沙織の瞳に一瞬何かが浮かんだのを星矢は敏感に察知した。
 それが良いものか悪いものかは分からなかったが、まだ沙織に人の立場の望みをもってもらう可能性があるのだと信じた。
「沙織さん、今日時間あるか?」
 考えるより前に、言葉が出ていた。
 星矢は沙織を街へと連れだした。

 にぎやかな、しかしゆったりとした流れの街並み。
 その中を、沙織と二人で歩いた。
 目的地も決めずに適当に歩いていたが、ほとんどこうして街を歩く機会の無い沙織にはすべてが楽しいらしかった。
 そんな沙織の様子に、星矢はそっと安堵した。
 店のショーウインドーを見て歩く。
 星矢とて、普段こんな店を見る機会などほとんど無いのだが……
 不思議なことに、全く興味の無い筈の服やアクセサリーを売る店も、沙織に似合うだろうかと考えながら見ると普段と違って見  える。
 沙織は、安いアクセサリーを沢山並べている店先を珍しそうに見ていた。
 普段の沙織のアクセサリーは、グラード財団グループの貴金属部門オーナー自らが上等のものを選んでやってくる。
 だからこうした店が珍しいだけで、沙織は遙かに高価なものを持っているのは知っていた。
 しかし熱心に見入る沙織を見ている内に、星矢の中にある欲求が生まれ、沙織に似合いそうな髪飾りを買った。
 沙織は微笑んで、それをつけた。
 それからまた二人街路樹の影を横切りながら、道行く人々を眺め、二人でお茶を飲み、何気ない言葉を交わし合う。
 長い坂を登りつめた先にある公園から、街を見下ろす。
 風に乱れる髪を押さえながら街並みを見下ろす沙織の横顔を、星矢は見つめていた。
 自分が沙織に願うものが、具体的な形をなしていく。
 街のすがた、人々の営み。それを、日差しがふりそそぐようにどこか遠くから愛するのではなく、その中に生きて欲しかった。
 沙織にここに、いてほしい。
 そうして、人として生き、人としてのささやかな望みを抱き、少しずつ年を取っていって欲しい。
 それは自分の思い上がりだろうか。身勝手な欲望だろうか。
 それでも、この地上は沙織の生きる場所なのだと、信じて、信じさせてほしい……



 部屋まで送ってくれた星矢と別れたあと、ひとり沙織はもの思いに沈んだ。
 どうして星矢は優しいのだろうか……いや、どうして自分は星矢を切り離せないのだろう。今日だって、断ることなどできなかった。
 このままだと私は……
 何気ないはずみに触れた星矢の手のあとが、熱かった。
 自分がある望みを抱いてしまう、それを沙織は怖れた。
 星矢が貫かれる、剣が見える。その剣を持つのは、星矢を殺すのは……

 自分は聖闘士達に希望を与える、女神だった。
 希望とは、人に生きる力を、戦い抜く勇気を与える。
 だが同時に、希望ゆえに人は命をかけてしまう。
 私は聖闘士を死地へと誘う女神。
 自分のために命がかけられる。その重圧と、哀しい喜び。
 女神のため、地上の愛と正義のためなら笑って死ねるという聖闘士達の思いを、受け止め続けた。
 時に、本当に時に、生身の少女としての心が悲鳴をあげたこともある。
 そんなとき、ちぎれそうな沙織の心をつなぎ止めたのは……
「ふざけるな!いやなものはいやなんだよ!」
 幼い日、唯一自分に歯向かった星矢の瞳。あのときは苛立つことしかできなかったが、時を経るごとにそれが自分の中で驚くほど大きな支えとなっていることに気づく。
「俺はあんたの奴隷じゃない」
 どんな運命にあろうと、俺は俺として生きる。その瞳は、そう叫んでいた。
 彼らは私の奴隷ではない。彼らは運命に負けたのではない。
 あのときの星矢の瞳が、どんなに自分を支えてくれたことか……

 そしてその後も、星矢は常に沙織の予想を越え、「希望の聖闘士」の名を背負うにふさわしく流星のように駆け抜けていった……
 かつて、少女として彼を愛したこともある。しかしその愛は自分の中で昇華させたはずだった。自分は星矢を、皆を、地上を、心の底から愛している。

それで良いのだと……
 なのに今、自分の心の中に自分で押さえられない部分があるのに気づく。
 それが目覚めてしまうのが、怖ろしかった。
 聖闘士は自分のために死ぬ、それを受け止めることが私の宿命。しかし、星矢は、星矢に対してだけは……
 今でも、自分が彼を死地へと導くことを怖れている。戦いの無い日々が訪れたというのにそれでも、今でも私は……
 沙織の中で、星矢への想いが渦を巻き、心を砕きそうになる。
(いやっ!)
 何かが爆発しそうになったそのとき、床に何かが落ちた。
 そのかん高い音に、沙織は我に返る。
(あ……)
 星矢のくれた、髪飾り。
 沙織はそれをそっと握りしめた。
 ひとしきり想いがまつげをつたい落ちると、深呼吸をする。
(もう平気……)

 このままではきっと、私の中の何かが星矢を飲み込んでしまう。
 だからこの心を、風にのせて行こう。この地上を包む大気の中に少しずつ散らばっていけるように。もうこの想いは自分から切り離せないから、きっと……
 星矢への想いを風にのせるたび、自分の存在そのものも散っていってしまうのだろうと、予感していた。
(なんだ、最初から……)
 それで良いと、自分は思っていたではないか。このまま、静かに静かに風に吹かれていくのも。
 その速度が、少し速くなるだけ……
 もう、自分の役目はきっと終わったのだから。もう、思い残すことは無いのだから……
 歴代の女神は最期はどうしていたのだろう。
 記録によれば、平和を見届けるといずことも無く去っていったともある。
 きっと、こんな風に少しずつ少しずつ、大気とひとつになっていったのだろうか。
 今は沙織の心は、この間までと同じく平穏だった。
 懐かしい、愛おしい人々の顔がひとりひとり浮かんでくる。
 星矢と見下ろした街並み。あの中で、この地上で暮らす人々。
 星矢にその中に連れていってもらえて、嬉しかった。
 できることなら、その中で生きていきたいとも思う。けれど……
(もう、終わりにしましょう……)
 ほんの少し、そのときが早まっただけ……



 

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