潮 風
熟れたオレンジのように赤い月が空に昇った夜。
地中海を一望できるアテナ神殿に沙織はいた。穏やかに波打つ海面はどこまでも静かに続いている。人間に身をやつして24年。強いられた運命にもがく姿は、人間以外の何者でもなかった。楽しくも、辛くもあった日々が、繰り返し沙織に脳裏に映し出されていく。
沙織の頬を、一筋の涙が伝った。
「時間です」
背後で低い声がした。
振りかえろうともせず、沙織はただ海を見ていた。その背中は神に相応しくないほど弱々しく、男の哀愁を誘った。
小波の音が、潮風の香りと共に宮殿を抜けていった。
「いきましょうか」
振りかえる沙織の顔は、一点の曇りもなく、穏やかだった。
男は、急に哀れに思えてきた。
「どうしました?そんな顔をして」
戸惑いに眉をしかめる男に、沙織は優しく尋ねた。
「よろしいのですか?」 躊躇いがちに、男は質問で返した。
「本当に天界に戻るおつもりなのですか?」
「地上はすでに平和を取り戻しました。久しく、邪悪の影は見えないでしょう」
「たとえそうでも、あなた自身、よろしいのですか?人間界を離れて?」
穏やかな秋空はどこまでも青く澄み渡っていた。
その日、一人の供も連れずに沙織はサンクチュアリに戻ってきた。
「お久しぶりです」
真紅のローブに身を包んだ教皇は、片膝をつき恭しく頭を垂れた。
「元気そうですね、一輝」 沙織は言った。
「何か変わったことはありませんか?」
天井高い教皇の間に、沙織の澄んだ声が響いた。
「至って平和のままです」
「なんだか、残念そうね」
「そういうわけではありませんが」
一輝は首を竦めた。珍しくおどけるような仕草の一輝に、沙織は微笑んだ。
「ハーデスとの戦いが終わって12年。世界はすっかり平和を取り戻しましたね」
そう言う沙織の表情にさした陰りを、一輝は見逃さなかった。
「今回の目的は?星矢も連れず一人で来るなんて、何か理由があってのことでしょう」
沙織はすぐには答えなかった。実直に見つめる一輝の鋭い瞳が、沙織には悲しく思えた。
「数日中に、天界から使者が来ます」
「天界から?」
一輝の表情が硬くなった。身構えるように肩を張る一輝に、沙織は苦笑した。
「大丈夫よ。別に何も起きないから」
「どういうことです?」
「使者は、私を迎えに来るのです。私を天界に連れ戻すために」
外気に反応して支柱があげた軋み声が、神殿に木霊した。
濡れるように長い睫の奥にある沙織の瞳は、どこまでも涼しく、一輝は沙織の言葉を理解するのにしばらく時間を要した。
「人間としての生を終えるということですか?」
乾いた咽を感じながら、一輝は聞いた。
「ええ」
「サンクチュアリはどう――」
「あなたがいるでしょ?さっきも言ったように、世界は平和を取り戻しました。アテナとしての、私の役目も終わったのです」
そう言う沙織からは、何の感情も感じられなかった。まるで、今日の天気を話すように、いとも気軽に沙織は話した。
「財団は?グラード財団はどうするつもりです」
額に溜まる汗が落ちないことを祈りながら、一輝が言った。
「星矢がすべてを継ぎます。ハーデス戦以降、彼はセイントとしてではなくビジネスパートナーとして充分に成長しました。彼になら、安心して任せられるわ。法律上の手続きもすべて完了しています」
「星矢は、納得したんですか?」
そこで初めて、沙織は表情を崩した。細い眉をしかめ、形のいい唇を歪めた。
「彼には…話していません」
一輝は溜息をついた。
「知っていれば、あいつはあなたを行かせないだろうな」
だからこそ、言えなかった。その言葉を、沙織は飲みこんだ。もし言えば、星矢は猛反対しただろう。けれど、もし反対されなかったら。もし引きとめられなかったら。それが怖くて、沙織は言えなかったのかもしれない。
「本当に、行くつもりなのですか?」
真っ直ぐな鋭い瞳で見つめる一輝に、沙織は揺るぎない確固たるまなざしで答えた。
「もう、決めたことですから」
満月が天高く位置し、大海原に太陽の恩恵を振りまくとき、天からの使者は大地に降りたる。
沙織の予言通り、今宵、アテナ神殿に穏やかな一筋の光が舞い降りた。
一輝はそれを確認しながら、怒りとも悲しみとも取れない冷たい目でアテナ神殿を眺めていた。
アテナが天界に戻る―――。
血と命と心で結ばれた懐かしい記憶を結ぶ存在が消える。
一輝の胸が熱く震え出した。けれど、一輝はアテナ神殿の方角を見るばかりで立ち寄ろうとはしなかった。一輝は辛かったが、誰よりも的確にアテナという存在を捉えていたから。
アテナは神であり、魂は天のもの。城戸沙織として人間の肉体を借りているに過ぎず、その役割を果たせば天に戻る。
一輝がそう理解しているからこそ、沙織は今回の訪問の真意をすぐに話したのだ。だからこそ、一輝は彼女の辛い決意を踏みにじることはできない。
一輝は声にならない溜息をついた。
今頃、アテナは天からの使者と話していることだろう。そして、ほんの数分後にはこの世から―――。
憎んだ時期もあった。けれどいまは、アテナを人間として、神として尊敬している。何よりも厳しい現実を受け入れ、立ち向かったのはアテナ本人だったから。彼女がいなくなれば、サンクチュアリの指揮が乱れることは分かっている。そして何よりも、自分の支えがなくなってしまう。
しかし、一輝には何も出来ない。教皇となった彼は、現実を、アテナが受け入れる現実を肯定するだけだ。
再び、アテナ神殿に光が灯った。
密かに願う望みに一抹の光を託しながら、一輝はいつまでもアテナ神殿を見守っていた。