「アテナ、本当によろしいのですか?」
 肩膝をつき、精一杯の尊敬の念を込めながら、使者は聞いた。
 「私を迎えに来たあなたが言う言葉ではありませんよ」
 沙織は悲しそうに微笑んだ。そのあまりにも静かで慈愛に満ちた笑みが、使者の心に芽生えた迷いを、一層大きくしていった。
 「アテナ。あなたは神の中で最も人間に近い神だ。だからこそ、他神の怒りを買いながらも幾多の戦いを乗り越えてこられた。魂は神でも、心は人間に近いはず。ならば、人としての一生が終わるまでこちらにいても―――」
 「そんなことをすれば、あなたが父のゼウスに叱咤を受けるではありませんか」
 「それはそうですが…」
 「もう、決めたことです。この世は、人間のもの。私の力を必要としなくても、充分にやっていけるようになりました。私の役目は終わったのです」
 使者は沙織の瞳の奥を見据えた。そこには何の迷いもなかった。
 「分かりました。それでは―――」
 使者が立ちあがり、沙織の手を取ろうとしたそのとき、神殿の入り口から声がした。


 「ご挨拶だな。俺に別れも告げず」


 使者は声のするほうを見た。沙織は罪を犯した罪人のように引きつった表情を浮かべた。
 「誰だ、貴様は?」
 そう言う使者の口調は静かだったが、ふりまくコスモは膨れ上がっていた。
 それを沙織は制した。
 「どうしてここに?」
 使者の前に立つと、沙織は聞いた。
 答える変りに、星矢は真っ直ぐに沙織を見た。
 月明かりを浴び、白い聖衣を着た沙織は風に揺れる野花のように弱弱しく星矢には感じられた。
 「あんたにはまだ、やることが沢山残ってるはずだろ?」
 「私でなければいけないことは、何もないわ」
 二人は無言に互いを見るばかりだった。 様々な思い出が胸を埋めていく。不器用だった幼い頃、死の恐怖に目を背けながら続けた戦いの日々。ビジネスパートナー
 潮騒が穏やかにときを刻む。


 「アテナ、急がないとときを逸してしまいます」
 急かす使者を苛立たしそうに睨むと、星矢が言った。
 「アテナはいかない」
 断固とした口調だった。使者は嘲るように鼻先で笑った。
 「どうするつもりだ?アテナ自身が天界を選ばれたのだぞ」
 「あんたが何者か知らないが、アテナは戻らない。アテナの住む場所は、この地上だ」
 「大神ゼウス様がアテナが戻られることを望んでおいでなのだ。いわば、命令だ」
 「上の事情なんて知ったことか。今まで、さんざんアテナに苦しい思いをさせておいて、ようやく平和になったいまになって戻ってこいだと?勝ってなこと言うな」
 「星矢」
 星矢の語気は荒かった。窘めたものの、沙織の言葉に非難めいたものはなかった。
 「すみませんが、暫らく席を外してもらえませんか?最後に、彼と話しておきたいのです」
 沙織は言った。使者は何か言いかけたのを止めると、渋々、姿を消した。姿は消えても、使者の気が消えていないことに、沙織も星矢も気付いていた。けれど時間がなかった。


 「何で…」


 言いたいことは沢山あった。サンクチュアリに向かう飛行機の中で、星矢は数え切れないほどの文句を沙織に言ってやるつもりだった。だが実際に再会した今、言うべき言葉が見つからなかった。
 「サンクチュアリには一輝がいるし、財団にはあなたがいる。もう、私が留まる理由はないわ」
 そう言う沙織の声は明るかった。それが星矢には気に入らなかった。
 なんでそんなに平然としていられるんだ。
 出かかった言葉を、星矢は呑みこんだ。
 「本当に行くつもりなのか?」上ずり、掠れそうになる声を必死に堪えながら星矢は言った。
 「ええ」はっきりと沙織は答えた。
 「もし俺が来なければ、俺に黙って行くつもりだったのか?」
 「……」
 夜の地中海は沈むように静かで、月明かりだけに照らされた宮殿は暗かった。
 さらさらとした微風が、二人の頬を撫でた。
 「冷たい女だ、あんたは。結局、子供の頃と何にも変っちゃいなかったんだ。あの頃のまま、自分勝手で、冷酷で…」
 星矢は沙織から目をそむけた。沙織の方が先に顔を逸らすかと思っていたのに、沙織は痛いほど真っ直ぐに星矢を見ていた。哀しそうな瞳で。
 言いたいことはこんなことじゃなかった。ただ素直に自分の本心を話したかっただけなのに。出てくる言葉は沙織への中傷でしかない。そんな自分が我慢ならなくて、星矢は床を蹴った。鈍いおとが宮殿に木霊した。 
 「ごめんなさい、星矢。最後まで、あなたを苦しめて…」
 穏やかな口調。そのくせ、確固たる意志が感じられる。
 沙織さんは本気なのか?
 星矢は爪が食い込むのも構わず、力一杯に拳を握った。すぐ近くにいる沙織が、随分と遠くに感じられた。
 なんでだ。これからなのに。これから、やっと―――。
 「俺は―――」
 そのとき、使者が姿を現した。
 「時間です」
 憎らしいほど冷徹に、使者は言った。
 沙織は星矢の脇を通り、使者の方へと向かった。
 沙織が天界に行く。
 澄んだ声も、笑った顔も、怒って吊り上げる眉も、涙を堪える瞳も、すべてが星矢の心でしか存在しなくなる。
 甘く切ない沙織の香りが星矢の鼻先をすり抜けて行く。
 星矢の目の端から、見慣れた沙織の顔が消えて行こうとしていた。
 もう、二度と会えない…!

 


 「星矢!」
 沙織は息を飲んだ。
 星矢の大きな手は、強い力で沙織の腕を掴んでいた。
 使者の鋭い視線が、星矢に刺さった。それでも星矢は沙織にかける手の力を緩め様とはしなかった。緩めれば、沙織が簡単にすり抜けてしまいそうな気がしたから。
 「どう言うつもりだ?」使者は言った。
 「言っただろ?アテナは行かないって」
 「星矢。放してちょうだい」そう言う沙織の体に、緊張はなかった。
 しかし星矢は放そうとはしなかった。
 「アテナを放さなければ、アテナに対してだけでなくゼウス様にもはむかう者として、貴様に制裁を加えるぞ」
 静かな使者の口調とは反対に、彼のコスモは次第に高まっていった。
 星矢は恐怖を感じた。
 もしかしたら、使者の一撃で死んでしまうかもしれない。
 それでも、沙織をみすみす手放すことなんてできない!
 
 「アテナは行かない。俺が行かせないから」
 使者を睨みつけた星矢は、はっきりとそう言った。

 星矢と沙織それに使者のいる宮殿を、オリーブの葉の香りをのせた優しい潮風がかけていった。


 

 

 

 

END

 

by ゲードさま  


 

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